ヰヒカ(梅本公美子作)
画像についておわび
前号「ヒゲの剃り杭」で、画像「法師のヒゲ」の作者梅本公美子さんの名が脱落してしまいました。おわびして訂正いたします。(株)岡部組社報「おかべ」82号所載の旧稿「ヒコ大王のほこり」のカットとして作成されたものを、あらためて借用させていただきました。梅本さんは当時、「おかべ」の編集スタッフでした。
なお、今号の画像は「おかべ」81号所載の旧稿「わが名はヰヒカ」のカットからの借用です。
国つ神、ヰヒカ
「古事記」神武東征のくだりで、シッポが生えた人物が登場します。「ヰヒカ」と「イハオシワクの子」というふたりの国つ神です。
はじめナニワ湾に上陸作戦をこころみて失敗した神武の一行が、こんどははるか南方にまわってクマノ村(白浜ちかく)に上陸。ここでタカクラジからひとふりのタチ[横刀]をおくられます。そのあとヤタガラスの案内をうけて、ヨシノ川の上流へ。ここで、ヤナをしかけて魚をとる人物「ニヘモツの子」(アダの鵜養の祖先)に会います。そこからしばらくゆくと、井戸の底にピカッとヒカルものがあります。と思ったら、なんと、シッポの生えた人間が出てきました。「だれか」とたずねると、「国つ神、名はヰヒカ[井氷鹿]」と名のりました。このあと、ひきつづき「尾ある人」、「国つ神、名はイハオシワク[石押分]の子」に出会います。
山仕事用シリアテ
「尾ある人」とは、いったいナニモノでしょうか。岩波文庫「古事記」(倉野憲司校注)の脚注を見ても、「尾のあるような恰好に見えたのであろう」としているだけで、ヰヒカの職業など生活実態はナゾのままです。また「イハオシワク[石押分]の子」についても、「穴居民をいうのであろう」としています。
「シッポが生えた人間」など、実在するわけがありません。でも、「シッポが生えたように見える人」は実在します。それは、山シゴトをするために毛皮のシリアテを身につけた男たちです。山シゴトは、山で植林したり、トリやケモノをとったりするだけではありません。水源を確保して水をヒク、あるいは水銀・金・銀・銅・鉄などの鉱物をヒキだすのも、すべて山男たちのシゴトです。
ヰヒカは、ヰドをヒク人
ヰヒカは[井氷鹿]とも、[井光]とも書きます。ヤマトコトバの原則どおりに解釈すれば、ヰ=井戸。ヒカは、動詞ヒク[弾・引]の未然形兼名詞形で、「ヒクもの」の意味。英語でいえば、pickするものをpickerと呼ぶのとおなじ発想のコトバでしょう。したがって、ヰヒカは「ヰドをヒクもの」、つまり井戸を掘って水などの鉱物資源をヒキだす職人ということになります。
ヰヒカをそのまま英語に置きかえればwell-pickerとなりますが、そういう単語が成立しているというわけではありません。ただp-kタイプの英語ではpick(つついて取る)、peak(とがる)、peek(のぞき見る)、peck(つつく)、picket(とがりぐい)、pike(やり)、poke(つつく)など、日本語ヒク[弾・引]と共通のイメージが見られることは事実です。民族や国境のワクをこえた、人類語として共通の音韻感覚がはたらいた結果ではないかと思われます。
ピッケルとシリアテ、山男スタイル
井戸をヒク・ヒラクには、ツルハシ・ピッケルなどの道具をつかいます。素材として鹿の角などもつかわれたようです。ヒカを[氷鹿]と表記したのも、ヒ[氷](ツララ)やシカ[鹿](シ[石]カ[髪・毛]=角)の姿をもつ道具だからです。また、毎日ヒク作業をくりかえすので、ツルハシやピッケルのハサキはピカピカしています。かたい岩場をヒク[弾](pick)ときには、火花が飛んで、ピカッとヒカリます。
そんなわけで、ピッカピカのピッケルを手にとり、毛皮のシリアテを腰につけた山男スタイルが完成したと考えます。
言語感覚の問題
わたしは日本語の専門家ではないので、えらそうなことをいう資格はありません。それでもやっぱり日本語のコトバヅカイについて、あるいは解釈について、さらには言語感覚の問題について、ヒトコト・フタコト、いいたいと思うことがあります。
たとえば、こんどとりあげた「尾ある人」、「名はヰヒカ[井氷鹿]」、「イハオシワク[石押分]の子」などのコトバをどう解釈するかという問題です。
「尾ある人」という表現について、「文学作品だから、そのまま受けとればよい」という人もいるでしょう。しかし、小中学校で「古事記」について学習する場面で、「シッポが生えたように見える人」と解説するだけですませてよいものでしょうか。
このていどの解釈では、「現実には存在しないことを書いたデタラメ記事」、「現實の生活向上に役立ちそうにないムダ話」ということになりませんか。
論より証拠。いまのオトナたち自身、「尾ある人」、「名はヰヒカ[井氷鹿]」、「イハオシワク[石押分]の子」などについて、「実態までは、よく分からない」状態の人がおおいのではありませんか。
「古事記」神武東征のくだりは、歴史的事実の記録ではなく、神話というべきでしょう。しかし特定の神話が成立したということは、それまでに特定の人たちが特定の体験を積みかさねてきたこと意味します。
まずは古典の一言一句にこだわって、とことん意味をたしかめる姿勢が必要です。
「尾ある人=山男スタイルの人物」、
「ヰヒカ=井戸をヒク(掘る)技術者」、
「イハオシワク[石押分]の子=土木技術者」など、
個別の解釈をすすめたうえで、総合的に
「神武東征の中で、国づくりに必要な、さまざまの協力者たちをとりこんだ」という解釈にたどりつくことでしょう。
ここまでやってみて、はじめて「読んだ」、「分かった」といえるのではないでしょうか。
固有名詞は情報の宝庫
日本の国語学者の中には、地名・人名などについて、「これは固有名詞だから」といって、意味の追及を拒否する傾向が見られます。学問的な正確さを期するために「君子危うきに近よらず」ということかもしれませんが、ぎゃくに「職務怠慢ではないか」と批判されるかもしれません。
たとえば、日本人の姓には「山田・山上・山中・山下・山本…」、「河田・河上・河中・河本・河西…」、「田口・田作・田島・田尻・田添・田中…」など、地形・地理にあわせて命名されたと思われるものが多数あります。もちろん、出身地の地名をそのまま姓とする例も多数あります。
地名に、地形・地理を表わすコトバがおおいのは当然ですが、中にはその土地を開発した人たちのナマエをつけた例もあります。
時代が変わっても姓は変わりませんが、個人の呼び名のほうは時代の流れをつよく反映する傾向があります。おなじ男子名でも、「xxヒコ[日子・彦]・xxヒト[人・仁]」などはなんとなく古典的なイメージがともないます。「太郎・一郎・次郎・三郎・五郎」などは、ヤマトコトバとは一風変わった漢語のヒビキがよろこばれ、流行したものと思われます。ただし、サブロウ[三郎]は、やまとことばのサブラウ[候・侍]とヒビキあうコトバです。また、ゴロウ[五郎」は擬声・擬態語コロコロ・ゴロゴロや英語のglad, glass, glow, glory,
goldなどともヒビキあう、ヒカリかがやくイメージのコトバです。
いずれにしても、人名・地名などの固有名詞には、地形・地理をはじめ、動物・植物・鉱物、あるいは衣料・食品・住居など無数の情報資料がつめこまれています。まさに情報の宝庫です。コトバの音形(発音)と意味(事物の姿)との対応関係をさぐるうえで、重要な情報源の一つです。
ついでにいえば、空を飛ぶトリに国境がないように、コトバはもともと(宇宙)空間を飛ぶものであり、国境も国籍もなかったはずです。いちど日本語・英語・漢語などいう区別をとっぱらって、あれこれ自由に比較してみたらおもしろいだろうと思います。
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