安本 美典 さん からの ハガキ
半世紀
むかしの ハガキ
わたしは 年賀状 などの 来信ハガキを 50音順に ならべて、住所録 がわりに 利用して います。この 正月休みに、その ハガキを 整理して いる うち、たまたま 安本美典 さんからの ハガキを 見つけました。
それは、いまから
47年 ほども むかし、ハガキが 1枚 7円 だった ころの 話。わたしが『試論、古代日本語の 形成過程(1)…古事記と 魏志倭人伝の 分析 から』を 発表した とき(1968年2月)、安本
さん
から
ていねいな
助言を いただいた もの。思い出の つまった ハガキ です。
「日本語の 起源」を めぐっては、これまで
たくさんの
人たちが「仮説」を
発表して
こられ
ましたが、まだ
定説は
うまれて
いない
よう
です。身近な
ところ
では、日本海文化遊学会 代表の 仙石 正三
さんが
ブログ「山川旅人日記」12月12日号で、安本 美典氏の「大野晋『日本語=タミル語起源説』批判」を 紹介して おられます。仙石
さんに
よれば、安本
さんは「正統派の 代表では なく…計量比較言語学、言語年代学を 提唱し…大野に 引けを 取らぬ 論客」と いう こと です。
あらたな 年を むかえるに あたり、安本 さん からの ハガキを ご紹介 する ことで、あらためて
日本語の 起源を 考える キッカケに なればと 思いつき ました。
安本
美典 さん
からの ハガキ
1968年3月2日づけ、イズミ あて ハガキの 文面を、 原文の まま ご紹介します(太字は引用者)。
前略、失礼いたします。
この度は、御労作「古代日本語の形成過程(Ⅰ)」をお送り頂きまして、ありがとうございました。面白く拝読いたしました。
御本文中に、拙著の魏志倭人伝の現代語訳に関し、「この訳文については、訂正したい部分もあるが、いまは述べない」とございますが、その点につきましてお考えをお教え頂ければ幸甚に存じます。
なお、中国語と日本語(古語)との比較は、面白いとは存じますが、比較言語学的に正当な音韻対応の法則をあきらかにするという方法によらない場合は、言語学者から問題にされない可能性があると思います。古代の日本語を朝鮮語、中国語はもとより、ギリシア語、バスク語、さらにはヒマラヤのレプチャ語など、ほとんど世界中のきわめて多くの言語と比較する研究がこれまで、為されてきました。しかし、そのほとんどが失敗におわったのは、音韻対応の法則をみい出すことが、朝鮮語と沖縄語をのぞいては、不可能であったことによっております。したがって、学者たちを納得させる為には、語の音の類似の指摘ではなく、音韻対応の法則をみい出さなければいけません。そうでない限り、金田一晴彦氏も指摘しておられるところですが、英語とでさえも、かなり類似することばをみい出せるからです。
御研鑽のほどお祈り申しあげます。
不一。
音韻対応の法則
この ハガキの 中で 安本 さんは、「中国語と 日本語(古語)との 比較は、面白い」と 評価した うえで、「比較言語学的に 正当な 音韻対応の 法則を あきらかに する という 方法に よらない 場合は、言語学者
から
問題に
されない
可能性が
ある」と
クギを
刺されました。「音韻対応の 法則」と いう コトバを、3回も くりかえされました。
じつは、『試論、古代日本語の
形成過程(1)』は モジ どおりの 「試論」で あり、わたしが「象形言語説」に たどりつく まえの 未熟な 作品です。安本 さんの 助言を いただいた ことが ハゲミに なって、『試論、古代日本語の 形成過程(Ⅱ)』(1968年10月)で「語彙構造に かんする 仮説」を 発表、さらには『象形言語説に よる 英語音韻論』(1970年2月)で「コトバの 発生に かんする 仮説」と あわせて「象形言語説」を 発表した、と いう イキサツが あります。
人類の
コトバ としての
対応法則
わたしは、「音韻対応の 法則」を さぐる ことに 熱中して きました。ただし、安本
さんの
ご忠告に
さからって、「日本語 と 英語」の 音韻比較に まで ふみこむ 結果と なりました。これには、わたしなりの
理由が
あります。
①
人類の コトバが インド・ヨーロッパ
語族 など いくつかの 系統に わかれて いる という ことは、その とおり でしょう。しかし、語族の
チガイを
こえて、「(おなじ)人類の コトバ」と しての 「音韻対応(の法則)」も
あるか
と
思います。
②
「日本語 と 英語の 音韻比較」と いうと、「おまえ、バカ
か」と
笑いとばされる
のが
現状ですが、音韻対応の
事例は
山
ほど
あります。この
事実の
カゲに
なんらかの
法則が
はたらいて
いないか、いちど
ためして
みる
べきだ
と
思います。
日本語
音韻研究の おくれ
「日本語の 起源が まだ あきらかに なって いない」と いう 問題に ついて 考えて みましょう。これほど
基本的で
重要な
問題が
未解決
と
いう
のは、いったい ナゼ で
しょうか?
「日本語研究者たちの
言語観が
まちがって
いる
から」、「ピント
はずれ
だから」、「(ズバリ いえば) 漢字と いう マモノに 目が くらんで、コトバと モジの 区別が つかなく なて いる から」などの 理由が 考え られます。さらに いいかえれば、「日本語の
実態が
見えて
いないから」、「実態を 見ようと して いない から」と いう こと です。
たとえばの 話。日本の 大学 では、「日本語と 外国語との 比較研究」が 花ざかりの よう ですが、その 中身は ほとんど 語法・文法に かんする もの ばかり。音韻の 面 からの 比較研究は めったに ありません。この
事実は、日本人
いっぱんの
言語観を
反映した
現象で
あり、日本の 言語学界(日本語・外国語 とも)の 立ちおくれを しめす もの と思われます。
「敵を 知り、己を 知れば、百戦 危うからず」と いう コトバが あります。ぎゃくに
いえば、日本語と
外国語との
音韻感覚の
共通点・相違点も
わからない
まま
では、国語教育も 外国語教育も すべて 失敗する だろう と いう ことです。現代日本語は、「ヤマトコトバ+漢語+カタカナ語の チャンポン語」と いう のが 実態。「日漢英の
音韻比較研究」ぬきでは、国語の 学習指導法も 完成 できる 道理が ありません。
まずは、日本語の
単語家族研究 から
「日本語と 外国語との 音韻比較研究」は、個人や
特殊な
団体
だけで
完成できる
課題では
ありません。全国規模で、関係する
機関・団体の
協力を
得て、はじめて
成果が
期待できる
わけです。そこ
まで
ゆく
まえの
段階で、だれか
有志の
人たちが
討議項目や
方法手順、関係資料
などを
準備して
おかなければ
なりません。
現実的には、インド・ヨーロッパ語族に ついて おこなわれた 研究方法が いちばん 参考に なる でしょう。そのとき、日本語の音韻比較資料として どんな 日本語を えらぶかが 問題に なります。そして そのとき、「日本語とは、どんな
コトバか」「語根と
派生語との
関係は」「ヤマトコトバは
純粋種の
言語か」などの
問題に
ついて
あらためて
判断を
せまられる
ことに
なります。
スモウで 勝敗を 判定する には、まず 共用の 土俵や 判定の モノサシ(基準) などを 準備しなければ なりません。日本語と 漢語と 英語との 音韻を
比較する には、あらかじめ それぞれの 言語の 語彙体系に ついて「語根と 派生語の 関係(単語家族)」、「音韻変化の 法則」などの 研究を すませて おく 必要が あります。
さしあたりは まず、日本語の 単語家族研究を 英語の それ なみに 進める こと。その 作業が 完成すれば、その
あと
日本語と
外国語との
音韻比較作業が
本格的に
進み、やがて
音韻対応の 法則が 見つかる 可能性も 出てくるかと 思います。
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