萬葉集二、とびら(日本古典文学大系)
万、894、原文
万、894、書下し文
万、894、頭注
山上憶良、好去好来の歌
万葉集894、山上憶良「好去好来の歌」という長歌の中に「コトダマのサキハフ国」という文句が出てきます。この歌は、憶良から遣唐大使丹比広成へ献じた壮行の歌。「どうか無事唐土へわたり、使命を果たしたうえ、また無事ヤマトまでお帰りください」そんな願いをこめて、縁起のよい、おめでたいコトバをえらんで歌いあげています。
せっかくの「めでた文句」について、あまりヤボな議論はしたくありません。しかし、だいじな文句ですから、コトバの解釈や用法について、正確を期したいと思います。
この「コトダマのサキハフ国」は「コトダマがサカエル国」と解釈すべきものか、それとも「コトダマが幸福をもたらす国」と解釈すべきものか?それが、きょうのテーマです。
話をすすめる資料として、とりあえず「日本古典文学大系・万葉集」(岩波書店、1959。以下「古典大系」と略称)から関係部分を引用します(下線は引用者)。
[原文]
神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭国者 皇神能 伊都久志吉国 言霊能 佐吉播布国
等 加多利継 伊比都賀比計理
[書下し文]
神代より 言ひつ[傳]て來らく そらみつ やまと[倭]の国は すめかみ[皇神]の いつ
く[厳]しき国 ことだま[言霊]の さき[幸]はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり
[頭注]
言霊…言語の持つ霊力。言語に神秘な力があって、人の禍福を左右するものと考える未
開社会の風習は世界各国に行われている。
幸はふ国…幸福をもたらす国。
[大意]
神代から言い伝えてきていることには、大和の国は皇神の稜威のいかめしい国で、言霊
の幸ある国であると語り継ぎ言い継いできた。
万葉集894、山上憶良「好去好来の歌」という長歌の中に「コトダマのサキハフ国」という文句が出てきます。この歌は、憶良から遣唐大使丹比広成へ献じた壮行の歌。「どうか無事唐土へわたり、使命を果たしたうえ、また無事ヤマトまでお帰りください」そんな願いをこめて、縁起のよい、おめでたいコトバをえらんで歌いあげています。
せっかくの「めでた文句」について、あまりヤボな議論はしたくありません。しかし、だいじな文句ですから、コトバの解釈や用法について、正確を期したいと思います。
この「コトダマのサキハフ国」は「コトダマがサカエル国」と解釈すべきものか、それとも「コトダマが幸福をもたらす国」と解釈すべきものか?それが、きょうのテーマです。
話をすすめる資料として、とりあえず「日本古典文学大系・万葉集」(岩波書店、1959。以下「古典大系」と略称)から関係部分を引用します(下線は引用者)。
[原文]
神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭国者 皇神能 伊都久志吉国 言霊能 佐吉播布国
等 加多利継 伊比都賀比計理
[書下し文]
神代より 言ひつ[傳]て來らく そらみつ やまと[倭]の国は すめかみ[皇神]の いつ
く[厳]しき国 ことだま[言霊]の さき[幸]はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり
[頭注]
言霊…言語の持つ霊力。言語に神秘な力があって、人の禍福を左右するものと考える未
開社会の風習は世界各国に行われている。
幸はふ国…幸福をもたらす国。
[大意]
神代から言い伝えてきていることには、大和の国は皇神の稜威のいかめしい国で、言霊
の幸ある国であると語り継ぎ言い継いできた。
ごらんのとおり、サキハフについて[頭注]では「幸福をもたらす国」、[大意]では「幸ある国」と解説しています。わたしが疑問をもつのは、頭注の解説です。
ここで参考までに、国語辞典(「時代別・国語大辞典・上代編、三省堂。以下、「上代編」と略称)をみると、「サキハフ」について、自動詞用法と他動詞用法で活用方法がちがうことが分かります。
サキハフ(動四)…豊かに栄える。自動詞。
サキハフ[幸・福](下ニ)…幸あらしめる。他動詞。
つまり、自動詞の連体用法では「サキハフ国」となり、他動詞の連体用法では「サキハフル国」となるわけです。
[原文]は、万葉カナで「サキハフ[佐吉播布]国」と明記されているので、これはあきらかに自動詞サキハフの連体用法です。「コトダマのサキハフ国」は「コトダマが豊かに栄える国」と解釈すべきであり、「コトダマが幸福をもたらす国」と解釈することはできないと考えるのですが、わたしの解釈の方がマチガイなのでしょうか?
「枝もサカエル、葉もシゲル」姿
歌の文句に「めでためでたの若松さまよ。枝もサカエル、葉もシゲル」といいます。このサカエルとシゲルは、例のs-k音グループのコトバ。動詞サク[裂・咲・割]やシク[敷・布・如]、スク[鋤・好・透・梳・漉]などとも同系です。
サカエル[栄]は、木の幹がサキわかれて枝となり、そのサキがまた無限にサキ分かれる姿。
シゲル[茂・繁・重]は、もとシク[敷・布・如]の派生語。浜辺で波がシキリにシキよせる姿。また、草木が枝や葉をシクシク・シゲシゲ・シキリにシキ並べ、シキ重ねる姿。つまりサカエル姿、漢語でいえば繁栄する姿です。
草木の枝や葉がサカエル姿は、そのまますぐ、人間社会で一族がサカエル姿を連想させることになります。それが、コトバによる連想効果であり、一種のコトダマ効果です。
歌の文句に「めでためでたの若松さまよ。枝もサカエル、葉もシゲル」といいます。このサカエルとシゲルは、例のs-k音グループのコトバ。動詞サク[裂・咲・割]やシク[敷・布・如]、スク[鋤・好・透・梳・漉]などとも同系です。
サカエル[栄]は、木の幹がサキわかれて枝となり、そのサキがまた無限にサキ分かれる姿。
シゲル[茂・繁・重]は、もとシク[敷・布・如]の派生語。浜辺で波がシキリにシキよせる姿。また、草木が枝や葉をシクシク・シゲシゲ・シキリにシキ並べ、シキ重ねる姿。つまりサカエル姿、漢語でいえば繁栄する姿です。
草木の枝や葉がサカエル姿は、そのまますぐ、人間社会で一族がサカエル姿を連想させることになります。それが、コトバによる連想効果であり、一種のコトダマ効果です。
サキハフ[幸]は、サキ[先・裂]ハフ[延]姿
もういちど、サキハフ[幸]の話にもどりましょう。サキハフは、もともとサキとハフの複合語。サキは、もともと動詞サク[裂・割・咲]の連用形兼名詞形で、「サクこと」を意味します。また、サキ[前・先]は「サキ分かれてゆく先頭部分」のこと。サキ[幸・福]にサチ[幸・福]と同一の漢字が当てられているのも、もとは「先端がサキソガレタ姿の利器、ツリバリ・ヤジリなどのこと。また、その利器がもたらすエモノ」だったからと考えてよいでしょう。
ハフ[延・匍匐](動四)について、「上代編」は「①のびる。植物のつるや根などが長くのびていくこと。②這う。腹這いになって進む」と解説。さらにサキ[幸]ハフ(動四・下二)の用法について、「意味が形式化して、ある事態が進展する(せしめる)意を表わす接尾語となったもの」と解説しています。
当時すでに「意味が形式化」していたことは事実だと思いますが、自動詞(四段)と他動詞(下二段)の用法区別は守られていたはずです。
もういちど、サキハフ[幸]の話にもどりましょう。サキハフは、もともとサキとハフの複合語。サキは、もともと動詞サク[裂・割・咲]の連用形兼名詞形で、「サクこと」を意味します。また、サキ[前・先]は「サキ分かれてゆく先頭部分」のこと。サキ[幸・福]にサチ[幸・福]と同一の漢字が当てられているのも、もとは「先端がサキソガレタ姿の利器、ツリバリ・ヤジリなどのこと。また、その利器がもたらすエモノ」だったからと考えてよいでしょう。
ハフ[延・匍匐](動四)について、「上代編」は「①のびる。植物のつるや根などが長くのびていくこと。②這う。腹這いになって進む」と解説。さらにサキ[幸]ハフ(動四・下二)の用法について、「意味が形式化して、ある事態が進展する(せしめる)意を表わす接尾語となったもの」と解説しています。
当時すでに「意味が形式化」していたことは事実だと思いますが、自動詞(四段)と他動詞(下二段)の用法区別は守られていたはずです。
コトダマを信じるのは「未開社会の風習」か?
[頭注]にたいする疑問はもう1点あります。それは、コトダマにかんする解説の中で、「コトダマ[言霊]…言語の持つ霊力」につづけて「言語に神秘な力があって、人の禍福を左右するものと考える未開社会の風習…」と断定していることです。
「言語に神秘な力があって、人の禍福を左右するものと考える」ことは、はたして未開社会だけに見られる風習でしょうか?それとも、文明開化の現代社会にも見られる伝統的な風習でしょうか?
[頭注]の解説者におたずねします。あなたご自身は「言語に神秘な力など無い」とお考えでしょうか?また、憶良が歌った「ヤマト[倭]の国…コトダマ[言霊]の サキ[幸]ハフ国」は、実は「未開社会」だったというご認識でしょうか?憶良は、ヤマトの国を「さまざまな情報が得られる先進的な国」と、ほこらかに歌いあげたのではなかったでしょうか?
[頭注]にたいする疑問はもう1点あります。それは、コトダマにかんする解説の中で、「コトダマ[言霊]…言語の持つ霊力」につづけて「言語に神秘な力があって、人の禍福を左右するものと考える未開社会の風習…」と断定していることです。
「言語に神秘な力があって、人の禍福を左右するものと考える」ことは、はたして未開社会だけに見られる風習でしょうか?それとも、文明開化の現代社会にも見られる伝統的な風習でしょうか?
[頭注]の解説者におたずねします。あなたご自身は「言語に神秘な力など無い」とお考えでしょうか?また、憶良が歌った「ヤマト[倭]の国…コトダマ[言霊]の サキ[幸]ハフ国」は、実は「未開社会」だったというご認識でしょうか?憶良は、ヤマトの国を「さまざまな情報が得られる先進的な国」と、ほこらかに歌いあげたのではなかったでしょうか?
21世紀こそ、コトダマのサキハフ時代
むかしの話は別として、現代の日本社会はどうなっていますか?たしかに、「わたしはコトダマ信者です」とナノリをあげる人はすくないでしょう。それでも、大多数の人が毎日「おはよう」「こんにちわ」「おやすみ」「さよなら」あるいは「いらっしゃいませ」「行ってらっしゃい」「どうぞお元気で」「新年(誕生日)おめでとう」など、あいさつのコトバをかわしています。この「あいさつコトバ」って、いったいナンでしょう?
もし、ほんとうに「コトバに霊力などありはしない」というのなら、こんな「あいさつコトバ」など未開社会の風習は、さっさと止めたほうがよいということになりませんか?
ところが現実は、そのぎゃくです。世の中がセチがらくなり、人間関係がギスギスしてくると、ぎゃくに「あいさつコトバ」の効用が強調される傾向があります。それは、まわりの人たちとの人間関係をよくしたいから。つまり、コトバに「人の禍福を左右する」力があると、無意識のうちに信じているからでしょう。
そこで、もういちど考えてみると、21世紀こそ、コトダマのサキハフ時代だといって、マチガイなさそうです。コトバは、鉄砲ダマのような威力をもつトビ道具。そのコトダマがラジオ・テレビ・コンピューターなどをとおして、音波~電波~音波と変身し、人々の心にトビかかり、ツキうごかしている時代です。
人類がコトバを発明して以来、日本にかぎらず世界中どこでも、どの時代でも、コトダマは威力をもっていたと考えられます。ただ、コトバを聞いたり話したりする人たちが、どれだけ気づいていたか、それは別の問題です。
21世紀こそ、まさしくコトダマがサキハフ・サカエル時代です。
次回のテーマは、「21世紀版コトダマのサキワイ」を予定しています。