…「空を 飛ぶ 矢」説…
トブヤトリの 歌
トブトリノが アスカに かかる 枕詞だと いう ことは、ほとんど 常識に なって いると 思いますが、『東大寺要録』には トブヤトリと いう 語形を 用いた 歌が 記録されています。天平勝宝4年(752年)4月、東大寺大仏 開眼供養会の お祝いに、アスカの
寺から
おくられた
歌の
1首です。
ミナモトの ノリの 興りし
トブヤトリ[度布夜度利] 飛鳥の 寺の
歌 献る
ここで「ミナモト[源・水元]の ノリ[法]の 興りし…寺」と いう のは、もともと アスカ地区で 建立された 元興寺・法興寺の こと。天竺 (インド)で 興った ノリ[法] (仏法)が、カラ[唐]國を とおって 日本で はじめて 布教の ネジロを かまえた のが アスカの地 です。つまり、日本仏教 発祥の 地に あたる アスカの 寺 から 新興の 東大寺 大仏開眼 祝福の 歌を おくると いう わけです。
この歌 全文の 趣旨は いちおう 分かる のですが、「ミナモトの ノリの 興りし」 と「 飛鳥の 寺」との 中間に 「トブヤトリ」を 割りこませた のは ナゼか? トブトリノではなく トブヤトリと した のは ナゼか? どうも 気に なります。
空を 飛ぶ、矢の 鳥
参考までに 『時代別国語大字典・上代編』(三省堂。以下『上代編』と略称)の 解説を 見ると、こう なって います。
トブトリノ…①枕詞。天務紀朱鳥元年七月の条に「戊午、改元曰朱鳥<阿訶美苔利>元年仍名宮曰飛鳥浄御原宮」とあり、扶桑略記にも「天武十五年丙戊大倭國進赤雉、仍七月改為朱鳥元年」ともあって、朱い鳥の瑞祥を喜んで浄御原宮に飛ブ鳥ノの枕詞を冠し、その宮の所在地である大和のアスカ[明日香]の枕詞ともしたものである。のちにハツセ[長谷]・カスガ[春日]ノヨウニ、アスカ[飛鳥]の地名にもそのまま「飛鳥」の文字を用いるに至った。②飛ぶ鳥の早いようにの意で早ク来に、行きつく意で至ルにかかる。[考]「ミナモト[水源]のノリ[法]の興りし…」(東大寺要録)では、同じくアスカにかかりながら、トブヤトリの形になっている。
いまの 国語学界 では、トブヤトリの ヤを 感動詞] もしくは 詠嘆の 助詞と 解釈している ようですが、わたしは むしろ 名詞の ヤ[矢]と 解釈する ほうが すっきり 説明が つく のではと 考えて います。つまり、トブヤトリ=飛ぶ 矢鳥=空を 飛ぶ 矢の 姿を した鳥と 解釈します。それは、身近な 鳥と しては キジ[雉](矢+隹)・アカミトリ[朱鳥]で あり、やがて 天空を かける ヒの鳥(太陽)や
鳳凰・不死鳥・フェニックスの
姿です。
さらに いえば、この 歌の ばあい、仏法と いう ノリ[法・範]そのものが
「人間として
ノルべき
道のり」で
あると
ともに、矢の
鳥に
のって
仏法を
世界中に
ひろめると
いう
構想が
前提に
なって
いると
考えられます。
寺の 堂・塔は トリが
ヤドル 姿
トリも テラも、おなじt-rタイプの コトバてす。トリは 動詞 トルの 連用形 兼 名詞形。テラは 動詞 テル[照]の 名詞形で、テラテラ 光る 姿。テラ[寺]と
いえば、すぐ
連想される
ものが
ドウ[堂]・トウ[塔]の
姿。ドウ[堂]は、「トブトリが 大地に 飛び降り、翼を 休める 姿」で あり、トウ塔は、「トリが 大空に むかって 飛び立とうと して いる 姿」と 見る ことが できます。いずれも、まわりの
民家に
くらべて
一段と
たかく
ツキデル
姿の
建築物で、屋根の
瓦が
テリかがやいて
見えます。
「 矢の 鳥に のって 仏法を 世界中に ひろめる」と いう 立場に 立てば、寺の 堂や 塔は「仏法僧が 布教の 旅の 途中で ヤドを トル ところ」と 解釈する ことも できる でしょう。トブヤトリは、直接には「飛ぶ 矢鳥」の意で ありながら、やがて「飛ぶ
矢鳥が
ヤドル[宿]」姿をも 連想させる 語音です。
アマテルヤも 矢
さて、トブヤトリの
ヤを
ヤ[矢]と 解釈する ことに なると、おなじく 枕詞と されるアマテルヤ・アマトブヤ・ツギネフヤ
などの
ヤに
ついては
どう
なのかと
いう
問題が出て
きます。
まず アマテルヤは、「天照ル 矢 = 日(太陽)」と 解釈 できます。アマトブヤに
ついて、国語辞典は[天を飛ぶカリ[雁]という意で、大和の地名カル[軽]にかかる。ヤは間投助詞」と
解説して
います。しかし
これだけの
説明では、アマトブヤが
どうして
カリ[雁]・カル[軽]に
かかる
のか、その
対応関係が
分かり
にくいと
思います。
矢は、トブトリの 姿でも あり、カリ[狩]を する 姿でも あり、また 空中に カルク[軽]浮かぶ 姿にも 見えます。カリ[雁]も また、ヤ[矢]の 姿に なって トブ(雁行する)鳥で あり、カリ[狩]の 対象と された 鳥で あり、その 翼を カリ[借・狩]て 矢羽に 用いた 歴史も あります。こうした 時代社会の 中で、まず 名詞ヤ[矢]の 意味用法が 生まれ、それが やがて 間投助詞 ヤ[也・哉]に 変化して いった ことが 考えられ ます。
ツギネフヤに ついて、国語辞典では「枕詞。地名 ヤマシロ[山背]に かかる。語義および かかり方、未詳」などと
解説して
います。しかし
イズミは、この
ばあいも「ツギネフヤ
=
ツギツギ ネバフ[根延] 姿の ヤ[矢]」と 解釈します。標高の
高い
水源地帯で生まれた
小川が、谷間を
走りぬける
たび、つぎつぎ
支流と
合流し、やがて
堂々たる
大河と
なり、平野部では
氾濫して
分流する
ことも
あります。このような
地形(谷間・峡谷)を ヤマトコトバで ヤ[谷]と よんで います。矢が ノビル・ネバフ [根延] (せまい スキマに 入りこむ ) 姿と 見ての 意味用法です。イチガヤ[市ヶ谷]・クマガヤ[熊谷]・シブヤ[渋谷]・ヨツヤ[四谷] など、おおくの 用例が あります。
コク[谷]は、シゴク 姿
今回は、漢語や 英語との 音韻比較作業を ヌキに して、ここまで 来て しまいました。その 申しわけに、ひとこと
解説を
つけたして
おきましょう。
シブヤ[渋谷]・ヨツヤ[四谷] などの ヤに 当てられる 漢字[谷]の 日本漢字音は コクです。漢語 コク[谷]は kuk>gu. もと k-kタイプの 語音で、漢字形は「八印(わかれ出る)二つ+口(あな)の 会意文字で、水源の 穴から 水が わかれ出る ことを 示す」と 解されて います。この コクを ヤマトコトバの 音韻感覚で 解釈すると、「両わきを
岩で
締めつけ、コク・シゴク(シゴカレル)」姿と いう ことに なります。そこで、漢字
コク[谷]は
タニ(谷間)の
ほかに、キワマル(動きが とれない)の 意味用法を あわせもつ ことに なります。
ついでに いえば、いま 中国の 簡体字では[穀物]を[谷物]と 書きます。日本人はビックリ しますが、[穀]は もともと「かたい
カラ[殻]に カコマレ、シゴカレて いる 姿」であり、もちろん[谷]と
同音です
から、中国人に
とって
違和感が
ない
わけです。
アスカ[飛鳥]は askerの 姿
ついでに、英語音との 対応例を ひとつ。
アスカは、きわめて
フシギな
語音です。[飛鳥]とも[明日香]とも 表記されますが、国語辞典を 見ても、客観的・合理的な 語源解説は 見あたりません。そこで
イズミは
「アスカ
=
asker」説を 提案する ことに しました。
ヤマトコトバでは、上代語の
段階で
動詞アス(四。未詳。褪か)・アス[浅・褪](下二。浅くなる)を はじめ、名詞 アサ[朝・麻]・アス[明日]・アシ[足・葦]・アシタ[旦・朝]・アセ[汗] などが 成立して います。これらの ア音を、もと ya音 から y音が 脱落した 結果だと 解釈すれば、どう なるで しょうか?
ヨルの ヤミが ヤセル[痩]・アセル[褪]・(薄れる)姿が
アス[浅・褪・明日]・アサ[朝]・アシタ[旦・朝]。アサ[麻]や アシ[足・脚・足]は、もともと ヤ[矢]が まっすぐ 立つ 姿です。アセ[汗]も、肌から「矢の ように フキダス もの」です。
英語の 世界でも、a-s音を もつ コトバと してAsiaアジア, east東, Easter復活祭, eastern東方の などが あげられます。いずれも
アサ・アサヒの 姿に 通じる ものが あり、日の ヒカリは ヤ[矢]の 姿です から、なんとなく コトバと しての 対応関係を 感じとる ことが できます。ついでに
いえば、arrow(ヤ[矢])は 「ar ヤジリ[矢尻] + row[矢柄]」の 構造と 解釈でき そうです。
さいごに、「日本語 アスカと 英語askerとの 対応関係」の問題。Ask は「質問する。頼む」などと 訳されて いますが、語源的には「矢を ツキサクル。サグル。サガス」姿と 解釈する ことが できます。 Askerは 「質問者。頼む人」ですが、「嘆願者。乞食(begger)」を 意味する ことも あります。
日本語で アスクと いう 動詞は 成立して いない ようですが、「トブトリの
アスカ」、「トブヤトリ
アスカ」などの
意味用法から
考えて、動詞
アスク(矢で鋤く)や 名詞 アスカ(アスクする人、ところ)を
仮設する
ことは
できそう
です。そうなれば、「トブトリ・トブヤトリ~アスカ[飛鳥・明日香]~asker」の 対応関係に ついて スッキリ 説明が つく のでは ないかと 考えて います。
いまは まだ、個人的な 思いつき 程度の もの ですが、もっと おおくの 研究者たちが 知恵を 出しあって 討論する ように なれば、もっと いろいろな ことが 分かって くるだろうと 思います。